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徒然

思うこと 考えたこと

朱子学

 

宗教思想の授業を取っていて、朱子学についての回があってそれがとてもおもしろかった。

 

朱熹の思索が当時戦った最大の対手は仏教に帰せられるニヒリズムの哲学であった。この世に生きることは苦でしかない。そもそもこの世に人があること自体、何の意味もない。…何か責務と思われるもののために営々努力することなど、そもそもなんの意味も持たない。すべてははかない夢に過ぎぬ、と。 

 

だが朱熹は言う。

 

人には「万物を生み出しはぐくむ「天地(自然)」から託された責務がある。その責務は「万物」に共通に与えられている。それは万物が生まれ出る原初に「天地」より与えられた「明命・明徳(いのち)」を自身の心身の働きにくもりなく実現するという責務である。この託されたいのちを十全に生きるという責務は、いわば「自然」より任じられた職務である。生きてある限り「自然」と「生きとし生けるもの」の前にただされている「人としてのつとめ」である。これが朱熹の生涯をかけた思索の帰結であり、同時代に示し後世に遺した哲学であった。 / 木下鉄矢朱子〈はたらき〉と〈つとめ〉の哲学』

 

天地より与えられたいのちを自身の心身の働きにくもりなく実現するという責務、、天寿をまっとうするということかな。人としてのつとめ、、。

 

 

 

そしてもうひとつ。これがおもしろかった!!

 

(完全な引用ではなくまとめてます)

 

宗代以降の中国、読書することによって社会的な上昇をすることができた士大夫という階層があった、彼らにとってまず最も重要なのは、読書をすることである。彼らは『論語』や『孟子』などを読みながら、究極の肉体的快感を感じ取っていたのではないだろうか。「子曰学而時習之不…」というような漢字の羅列からかぎりなく恍惚とした快感を得ることができなくては、朱子学士大夫の世界観はわからないのである。

 

この感覚、わかる気がする…好きな小説の一説、詩の一説、読んでいて「わーーーー!好き!」みたいになる感覚がある。これが漢字の羅列だったら、素晴らしい人たちのかいた文なら、恍惚とするのすごくわかる。

 

 

〈気と理〉

重要なのは、儒教において肉体は気によって成り立っているため、同じく気で成り立っている宇宙とは完全な連続性の下にある。そしてこの気には 必ず理が付随している。

理とは、天に由来し、宇宙万物に秩序を与えている当為・原理・法則・道徳のことである。士大夫たちは、経書を読むことによってそこに書かれた理と合体し、そして宇宙の普遍的原理と一体化しようとするのである。読む肉体、読む行為、書物、文字などはすべて気である。したがってこの行為によって理と合体することにより、そこから得る「道徳的主宰者としての快感」は、宇宙全体に充満する気としてひろびろと拡散してゆくのでる。/小倉紀蔵『入門 朱子学陽明学

肉体も宇宙もすべて「気」でできている。気とは単なる物質ではなくバイタルな生命力(永遠不滅のエネルギー)を有した物質である。すべては「気の海」から生まれてくる。

朱子学の思想の中心には「美」という観念があった。刻々と劇しく動いている宇宙には均衡的秩序があり、それを中庸といい、それこそが最高の美なのである。

つまり「美を生きる」ということは宇宙全体が今まさに動いているこの躍動の秩序、すなわち「理」と一体化できるよう、自分の気をコントロールすることなのである。

 *

 

士大夫たちが読書を熱心にしていたのはこういうことだったのか。そこから得られた肉体的快感は、同じく気でできている宇宙の理と一体化する。そうやって生まれたのが「朱子学」だそう。

日ごろ、空や星を意識することはあっても宇宙は意識しない。でも宇宙も肉体も気から生まれていると考えると、別物として切り離すのもおかしな話なのかな、実際、地球上にいるというより宇宙の中にいるととらえる方が適切かもしれない。

どんどん広がる宇宙、それはどこから生まれているのかと言われれば、たしかに気といえば気のような気もしてくる、、違う考えがあったとしても言い換えれば「気」とおなじような意味になるのかな。

宗教や哲学は、上っ面、たとえば「Je pense,donc je suis.」のような言葉や考え方を「ただ知る」だけではだめなんだそう、どうしてそのような考えが生まれたのか、そこを、実感をもって体感し、感じていく、ことが研究においては大切で、意味のあることなんだそう。哲学は「考え方」を知るだけじゃなく、実感できるようになったら面白いんだろうな。

 

 

長くなりました。。

大学生の皆さんはテスト諸々がんばりましょう~!!!

わたしはあと50時間勉強すればなんなく終わるはずです、うえー!